通の食べ方とされる、「下の方にちょこっとだけつけて」というのは、蕎麦全般に当てはまるのではなく、薮の細打ちにだけ通用する食べ方です。
東京落語の笑い話で、
「死ぬ前に一度で良いからそばを汁にどっぷりと浸けて食べたかった。」
というのが紹介されてから、蕎麦というのはちょこっとだけ汁に漬けるもんだと誤解されているようですが、当然そうやって食べるべきではない蕎麦もあります。
十割で挽きぐるみの蕎麦は蛋白質が多いため伸びやすく、水を十分に切る前に食べてしまわなくてはなりません。 水で濡れた蕎麦でもおいしく食べられるように汁が濃く辛くなっているのでちょこっとしか浸けられないのです。
田舎や更科は食べ方が違うのです。
更科は良く水を切り、蕎麦の香りを水が邪魔しないようにしてから食べます。
蕎麦は腰があるのが良いと思っている方は多いようです。 蕎麦屋のほうでも腰を出そうと茹で時間に気を配り、早めに窯から上げてしまう余り、腰があると言うより硬いだけの蕎麦を良く見かけます。
粋に蕎麦を手繰ろうとすれば蕎麦を噛んだりしませんから、硬い蕎麦では手繰れません。 蕎麦の腰は茹で時間を短くするのではなく、横櫃の水を冷たくすることでださねばなりません。
ちょっと過ぎたかなという位が丁度よいのです。
信州蕎麦はよく知られていますが、蕎麦が今のように細く長くなったのは江戸の蕎麦粉屋の功績で、信州で薮や更科のような蕎麦が出来るわけではありません。
蕎麦と汁の相性を重要視するのも江戸蕎麦の特色で、信州蕎麦にはない特色です。
蕎麦は色が黒く、星という粒が入っているのが本物という意見もあります。
黒い粒は蕎麦殻ですから、枕の中に入れるような水に溶けない硬い物に味があるわけがありません。
米を脱穀してから精米するように蕎麦殻も取り除かねばなりません。
そば粉が3割で小麦粉が7割でも蕎麦と表示できます。 そんな蕎麦でも蕎麦殻を挽き込んでしまえば、黒いそば粉ができます。 黒いからと言ってそば粉が多いとは言えません。
更科粉なんかは真っ白です。 更科粉の生粉打ちだと素麺のように真っ白な蕎麦ができます。
更科蕎麦は割り抜きを石臼にかけて最初の15%程の量のそば粉で作ります。 あとの85%は色の黒い蕎麦になります。 自家製粉をしているところでは、もったいなくて出来ない蕎麦です。
この色の黒いそば粉は立ち食い蕎麦屋とか乾麺屋が使います。
薮は丸抜きの挽きぐるみです。 比較的黒い蕎麦になりますが、星は入っていません。
これを十割の生粉打ちにしますので蛋白質が多く、すぐにのびてしまいます。 更科は蕎麦の実の外側に含まれている蛋白質が入らず、でんぷんがほとんどですのでのびません。
最近の自家製粉の流行で更科そばは迫害されてます。 自家製粉で更科粉を取ると残りの蕎麦粉は使えないし、そもそも蕎麦の実が6倍量必要です。 ですから最近のこだわり蕎麦屋は挽きぐるみの全粒粉しかやらないのです。
こだわりの手打ち蕎麦が独りでに薮風の挽きぐるみ揚げ出しそばになるのは前説のとおり。
しかし、薮では蕎麦が濡れていることを考慮して、薄くなっても味が変わらないように濃い出し汁を必死になって取っているのに対し、こだわり手打ちでは蕎麦の味を楽しんで欲しいとか言って出来るだけ薄い汁を出そうとします。
これはいただけません。 もりそばを食べているうちに汁がうすくなってしまいます。
蕎麦打ちは汁のほうが難しいのです。
かけ蕎麦の汁は、江戸伝統の作り方では、鰹節で取った出汁のもり汁をバカ出汁で二倍に伸ばすのが普通だそうです。
江戸のそばの汁は飲まないのが普通だそうですので、これでも良いのでしょう。
阪急そばで育った関西人としては、飲める汁がほしいところ。
このような汁には、鰹節は酸味が強すぎて不適当です。 もり汁には純粋な味が必要ですが、甘汁には多少の雑味があったほうが良いようです。
並木薮などでは、鰹節ではなくさば節やうるめ節を使い、あんまり長い時間煮出さずに出汁をとります。 さば節を長い時間煮ると出汁が魚臭くなってしまいます。 好みで昆布を水から入れたりします。
更科発祥の地は麻布十番にありますが、現在の麻布十番には更科が3軒もあり、どれが本物の本家か素人目には区別がむずかしいようであります。
1)総本家永坂更科布屋太兵衛
2)麻布永坂更科本店
3)総本家更科堀井
とこれだけ似たような店があります。
このなかで本当の本家は、3)の更科堀井であります。 1)の永坂更科布屋太兵衛というのは確かに更科の発祥の名前ではありますが、昭和初期に廃業した本家を外部の人が再建するにあたり会社組織として登録商標にしたというのが本当のところ。
昭和59年に本家筋の堀井良造さんが再建したのが3)の更科堀井というわけ。
全国に沢山ある「更科」は単に名前を流用しただけの店が多く、更科といっても更科蕎麦が出てこない店がほとんど。
並木やぶの先代、堀田平七郎の「江戸そば一筋」を買いました。
更科の藤村氏とは考えが違うところもありますが、それぞれに良く考えた上でのことというのがよくわかる本でした。 納得したのは、薮でも「もり」は水切りを重要視していて、水が滴るそばを好むのは東京そばの本意ではないということ。
★☆並木薮の甘汁のレシピ☆★
鯖節を63g/升で30分煮つめる。 最後に蒸発した分をお湯で補う。
かえしはヒゲタ醤油の生返し。 砂糖は300g/升を醤油の1/10の水で溶かして加える。
合わせは10杯1杯。
★☆並木薮の辛汁のレシピ☆★
鰹の本節を100g/升で90分煮つめる。 お湯は足さない。
かえしはヤマサ醤油の生返し。 砂糖は230g/升を醤油の1割の水で溶かして加える。
出汁3升にかえし2升4合と味醂5合の割合。
冷ましてから1日陶器のタンポで湯煎する。 再び冷ましてできあがり。
神田直系の杉並やぶの名古屋支店で花巻を食べたときに、甘汁がとても重かったので、神田のレシピは別なのかも知れません。 並木はちゃんと吸う汁にしたてているそうです。 神田は絡む汁なのかもしれません。
DASH村のそば作りでも失敗してましたけど、鰹節削り器で削るときに冷たいままの鰹節をいきなり削るとパラパラの破片にしかなりません。 厚削りの節を取ろうと思ったら節を暖めておく必要があります。
やぶに入れている鰹節屋は釜で焼いてから削っているようです。
そばというと、枕崎の鰹の本枯れ節と相場は決まっていますが、通用するのは関東付近だけのようです。
鰹節は出汁にしたときに酸味が出ますので、醤油を足しても酸っぱい汁になってしまいます。
東京風の辛汁ならばこれでよいのですが、関西人の舌には酸味が勝ちすぎます。
鯖節、うるめ節など雑節のほうが甘汁にはよいと思います。
但し、鰹に比べて魚肉臭が強いので、あんまり長時間煮つめると魚くさい汁が出来てしまいます。
薮のてんぷら蕎麦は、芝海老のかき揚げをその場で揚げていますが、昔の更科では朝に揚げた物を汁で煮込んでから出したそうです。 この違いはどこから来たのでしょう。
明治期になってからメリケン粉(薄力粉)が輸入されるようになって、てんぷらの衣が軽くなったことに由来します。 それまでの日本古来の小麦粉は中力粉で、てんぷらにすると衣が厚いぼてっとしたものになります。 その厚い衣のてんぷらでてんぷら蕎麦を作るには、衣に味を染み込ませる必要があるので汁で煮込むようにし、煮込んでも衣が剥がれないように冷まして固めておいたのです。
薄力粉ならば、薄い衣ができますから汁で煮込んで味をつける必要もありませんから、通し揚げにできます。
薮が創業したのは、1880年(明治13年)のことですから薮のてんぷらは薄力粉で通し揚げなのです。
更科の創業は1790年(寛政元年)でまだ小麦粉は中力粉でしたから、当時の更科のてんぷらは冷まして固めるスタイルだったというわけです。 なお、現在は車エビの通し揚げになっているようです。
蕎麦を始めるというとどなたでも、そば包丁で切る姿を思い浮かべると思います。
が、それは蕎麦修行の中でも一番簡単な部分です。 一番難しいのは粉に水を含ませる水廻しという工程であります。
それにも増して難しいのが汁であると思います。
甘汁(温かい蕎麦の汁)の関西風、神田やぶ風、並木やぶ風、辛汁の関西風、薮風、更科風と何種類もの汁をとりわけなければいけません。
もちろん、自分の好みはあると思いますが、手打ちとなれば、そばに合った汁で食べて欲しいもの。 食べてもらう人の好みにも合わせなくてはなりません。
私は、汁が取り分けられるようになってから蕎麦を打ち始めようと思います。