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[3] 7月10日 大津追分 走井茶屋

2013/07/09
 嫁の実家は八幡の走井餅老舗であって、その創業は大津追分において1764年(明和元年)である。 頃は十代将軍徳川 家治(とくがわ いえはる)の世であった。
  
 1833年から34年にかけての安藤広重による「東海道五十三次」の大津宿に走井茶屋が描かれていることは有名であるが、1910年(明治43年)に八幡に移転した後本家は廃業しその跡地を日本画家橋本関雪が1913年に買い取り別邸走井居とした。 
 一般にはその後、月心寺になったということになっているが、走井居の一部を寺院にお預けしていたが、近年橋本家の管理に戻ってきたというのが本当のところらしい。
 
 さて問題は、追分走井庭園と呼ばれた庭の規模だ。 一軒の餅屋が所有していたにしては規模が大きすぎるのである。
(wikiより)
本尊は「童形聖徳太子像(鎌倉期)」。境内には小野小町の百歳の姿をあらわしたといわれる百歳像を祀る小野小町終焉地とされる百歳堂、松尾芭蕉の「大津絵の筆のはじめは何仏」の句碑、蝉丸の庵があったと言われる場所には「三聖祀堂」、走井から出土したと言われる石造の篠原薬師が祀られている「薬師堂」、明治天皇僥倖の際の御休憩処などがある。庭園は世阿弥の作庭と伝えられる石庭、池泉回遊式庭園「追分走井庭園」。

 
 嫁の実家というより日本史の教科書の世界である。
 世阿弥に至っては、室町時代の人物である。 その世阿弥の作庭とされる庭園を所有していたというのは、話がでかすぎないか。
 走井茶屋が江戸中期の1764年創業であるので、それより300年も前の室町時代当時の走井庭園というのは、誰の所有であって何の施設であったのか。
 そこのあたりの資料がないのよね。
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